堀浦運河址
我が国でもっとも古いこの運河址は、加露林湾上流である八峰面イソン里(八峰面中学校の後方)と浅水湾に流れ入る川(泰安郡仁坪里、現在の仁坪貯水池)の間の狭い要所約3kmを掘削し、水路として連結させようとした場所である。
堀浦運河を開削するようになった要因は、三南地方〔忠清道・慶尚道・全羅道〕の税穀米を開城(都)に運ぶ際、漕運船団が泰安半島の安興梁冠丈項を必ず通過しなければならなかったことによる。しかし、安興梁は西海岸上に突出しており、岩礁が多く、急な潮流によって頻繁に漕運船が転覆・沈没したため、財政の損失が大きかった。そのため、税穀米を安定的に輸送し、運漕にともなう地理的・時間的な距離(沿岸約817km)を短縮しようとすれば、現在の堀浦運河の開削が絶対に必要であった。
高麗仁宗12年(1134)から堀浦を開削しはじめ、朝鮮中期の壬辰倭乱直前まで、400余年間、数多くの人夫を動員し、運河工事を続けたが、岩盤や潮水で押し出された土砂などによって中断し、失敗に終わった。
その後、税穀米の輸送のために、朝鮮顕宗(1668)代には、堀浦開削地の周辺に多くの漕倉を設け、南から上ってくる税穀米を、泰安平川に倉庫(南倉)を建てて保管し、陸路で八峰面イソン里の倉庫(北倉)に移送し、ここから再び西に開城〔漢城?〕まで運んだ。この設倉陸送案が長い間持続され、多くの村落が発生・発展し、今日に至っている。
現在残っている痕跡は、八峰榛墻里と泰安郡島内里との境界地域約1kmほどであり、この堀浦運河が成功したとすれば、瑞山・泰安の歴史が今日のものと全く異なる姿に変わっていたものと思われる。 〔以上、「案内板」による〕