清海鎮遺跡地

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清海鎮遺跡地

史蹟第308号

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 この島は将島と呼ばれ、総面積約3.800坪であり、統一新羅時代、張保皐大使が造った清海鎮(828~851)の中心地である。

 清海鎮は、当時我が国の西・南海岸の海上勢力を統合した軍事的拠点であり、新羅と唐国、そして日本を結ぶ東北アジアの海上貿易を管掌していた経済的な前身基地であり、鎮に所属していた人々の政治的な根拠地であった。当時、ここ将島は、清海鎮内で国家的な祭祀が挙行された地であり、また、軍鎮の役割も担っていたと思われる。

 張保皐大使(?~841)は、「海を治める者が世界を支配する」という原理を自ら実践した軍事戦略家であり、「海洋産業帝国の貿易王」であった。

 大使は莞島で生まれたが、若くして(810年頃)唐国に渡り、30才で武寧軍小将となり、軍人に出世した。しかし、海賊が新羅人を捕らえて奴婢として売買するのを見て憤慨し、新羅に帰国した後、興徳王に軍士10,000名を要請、莞島に清海鎮を設置し(828年)、海賊を掃討して大小海上集団を統合した。

 以後、海の道を掌握し、新羅・唐・日本を結ぶ中継貿易を実施し、中国山東省の法華院を中心に新羅坊と新羅所を建立し、新羅人を保護してその帰国を助けるなど、多様な活動を展開した。

 この島は、張保皐と清海鎮の人々が残した痕跡が最もよく残されている遺跡で、1991年から2001年まで8度に渡って、国立文化財研究所が発掘調査を実施した。

 発掘調査結果、版築土城でなされた890mの城壁と、建物址・門址、祭祀容器を土に埋めた埋蔵遺構、331mに至る海岸円木列(木柵)が確認され、土器・磁器破片・金属製品など総3万余点の多様な遺物が出土した。

 また、張保皐大使の海上活動と関連した、海岸出入・接岸施設と推定される石築石列遺構と、井戸・排水溝など、重要な遺構が発見され、ここが清海鎮の本営である可能性を高めている。

 2000年から土城復元など、清海鎮遺跡の整備・復元事業が盛んに行われており、今後、将島の周辺一帯を清海鎮歴史公園として造成し、教育および国民観光地として開発する計画である。〔以上、「案内板」による〕

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城門(復元) 。


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張保皐を祀った祀堂。


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清海鎮時代の石築。


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全体図。