聖住寺址

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聖住寺址

史蹟第307号

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 聖住寺は、統一新羅末に流行していた禅宗寺刹の一つ、聖住山派の中心地である。

 百済時代には、戦争で死んだ冤魂を慰めるために建てられた烏合寺という寺があったが、統一新羅時代に、金仁問がこの地域を封地として受けた後、新羅王室と深い関係を結んだ。その後、唐から帰国した朗慧和尚(800~888)が王子 昕の要請により、ここに重建したのが聖住寺である。

 発掘調査の結果、高麗時代の2次にわたる大幅な重創が確認された。また、朝鮮時代にも重創された痕跡が確認され、壬辰倭乱以後、寺の規模が縮小したと思われる。現在の中心寺域以外にも、周辺には多くの建物址が残り、周囲の美しい山勢とともに、雄壮であった頃の面貌が窺われる。

 境内には、崔致遠が撰した朗慧和尚白月葆光塔碑(国宝第8号)を始めとして、五層石塔(宝物第19号)、金堂の後方に立つ3基の三層石塔(忠清南道有形文化財第26号、宝物第20・47号)、石燈がある。発掘結果、百済時代の瓦当を始めとして、塑造仏、碑石破片、石製彫刻品が発見された。国立扶余博物館に、碑石の蛟首と亀趺がある。〔以上、「案内板」による〕 の建物内部の大梁に残っている金竜図は、優雅な色彩と生動感溢れる筆致の傑作であり、高麗仏教美術の美を垣間見せている。

 修徳寺は、近代韓国仏教の禅風を振起した鏡虚・満空和尚が住職となり、韓国仏教を中興させた道場である。境内には、大雄殿・青蓮堂・白蓮堂・祖印精舍・黄河精樓・槿域聖宝館・金剛門・天王門・一柱門の堂宇を備えており、大雄殿の前には統一新羅末高麗初に製作された三層石塔がある。山内には、定慧寺・少林草堂・香雲閣・金仙台・転月舍など、庵と土窟があり、定慧寺には能仁禅院があり、鏡虚・満空和尚の禅脈を継承する禅院として、多くの高僧大徳の出現地であり、昨今も禅客が列をなす道場でもある。また、徳崇山の西側の筋には、比丘尼第一禅院である見性庵があり、金一葉和尚が住職となった歓喜台や極楽庵・善修庵など、比丘尼の庵がある。近来は、僧家大学を設立運営しており、四部衆が徹夜勇猛精進を行うなど、叢林としての威容を備えている。〔以上、「案内板」による〕

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中門址。


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石燈


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五層石塔(9世紀後半?) 。


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金堂址の石仏台座


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三層石塔(新羅末)。


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シュールな顔立ちの石仏


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聖住寺の裏手には、近代に立てられた崔致遠の神道碑がある。碑題は朴正煕前大統領の親筆。