聖住寺 朗慧和尚 白月葆光塔碑
新羅の禅門九山の中の一つであった聖住山門を創設した朗慧和尚 無染(801~888)を讃えるために立てられた碑石である。碑身を支えている地台石の一部が損傷しているが、碑身と蛟首は元来の姿そのまま保存されている。朗慧和尚は、新羅29代の太宗武烈王の8代孫であり、姓は金氏、号は無量、号は無住である。朗慧は死後に下された謚号である。朗慧は、12才で出家し、821年に唐国に渡り、禅宗を修得、20余年間に渡って中国各所を訪れ、貧しく、病に冒され、寄る辺のない人々を世話した。唐人は、このような朗慧を讃えて「東方大菩薩」と称したという。847年に帰国し、40余年間、聖住寺に留まり、仏法を大いに広め、聖住山門を興した。碑が立てられた年代は、碑文の内容から見て朗慧和尚が世を去った2年後である890年(真聖女王2)と推測される。〔以上、「案内板」による〕