興寧禅院址
ここは、統一新羅後期の九山禅門の一つである獅子山門を開いた興寧禅院があった跡である。教宗が仏教経典を中心とした、教理研究に重点を置くのと異なり、禅宗は座禅を通じ、自ずから本性を悟ることを重視する宗派である。このような禅宗が9世紀ころ、大変流行していたが、そのうち9派が目立っており、この9 派の本山を九山という。
獅子禅門派は、澈監禅師 道允が開山祖であり、その弟子である澄暁大師 折中によって大きく隆盛し、ここを獅子山門派の根本道場とした。その後、891年(真聖女王5)、変乱によって寺が燃え、943年(恵宗即位年)に再建されたが、災害が続き、いつ寺が無くなったのか知られない。
伝承によれば、寺が大きく発展した当時の興寧禅院の規模を語る石塔が残っていたという。忠北堤川長楽洞七層模塼石塔、酒泉三層石塔、武陵里三層石塔がそれであり、邀僊亭の側にある磨崖如来像とともに、興寧禅院を尋ねて来る人々を案内するためのものであるという。今は、禅院址74平だけが残っている。〔以上、「案内板」による〕