丁若鏞墓

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丁若鏞墓

京畿道記念物第7号

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 丁若鏞先生は、ここ南楊州市鳥安面陵内里(当時の広州郡草阜面馬峴)で、父である羅州丁氏 載遠と母である海南尹氏(孤山 尹善道の後孫)の末子として生まれた。

 ここ馬峴村は、先生が生まれ、また埋葬された地である。

 ソウルでの官職生活(1783~1800)と全羅南道 康津での流配生活(1801~1818)を除き、主としてここで生活を送った。

 上に、異腹兄である若鉉と、同腹兄である若銓・若鍾、そして姉(義兄は李承薫)がいた。先生は磻渓 柳馨遠・星湖 李瀷先生の跡を継ぎ、朝鮮時代の実学思想を集大成した方として、朝鮮後期の開化思想家にも大きな影響を与え、文度公という謚号を受けた。

 先生は1表2書(『経世遺表』・『牧民心書』・『欽欽新書』)に代表される500余巻の経集と文集を著述したのみならず、世界文化遺産の一つである水原の華城を設計し、挙重器などの科学器具を製作し、『麻科会通』などの医学書籍も残した。

 先生の学問的な関心は、ひとえに「修己安人」、すなわち、「いかにして自らの体と心を磨き、百姓の生活を幸せにさせることができるか」という点にあった。

 現在、国立ソウル大学校社会科学大学ロビーには先生の肖像が掛かっており、「韓国最大の社会科学者」と記されている。〔以上、「案内板」による〕

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旧居(復元)。


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文度祀。


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丁若鏞銅像。


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墓域内には、実学博物館がある