三田渡碑
この碑は、丙子胡乱の際、清の太宗の要求により立てられた碑石である。正式な名前は「大清皇帝功徳碑」というが、文化財指定当時の地名を取って三田渡碑と名付けられた。都城から松坡に至る漢江の渡し場であった三田渡は、1950年代まで渡し船が通っていたが、70年代以後、漢江の開発により消え去った。碑石の元来の場所は、石村湖水の近隣と知られている。この碑石は、大理石系統の石で作られている。亀の模様を彫刻した台石の上に、碑文を刻んだ碑身が立てられ、上には螭首が装飾されている。李景奭が碑文を撰し、呉竣が字を書した。碑石の前面は満洲文字とモンゴル文字で、背面は漢字で彫られており、17世紀における三カ国の言語の研究に重要な資料である。内容は、清に降伏した経緯と、清の太宗の侵略行為を功徳と賛美したものである。清日戦争〔日清戦争〕以後、清の勢力が弱まると、高宗32年(1895)に江水の中に倒された。しかし、日帝強占期〔植民地期〕である1913年に再び立てられ、1956年に埋められてしまった。1963年、洪水によって姿を現したため、再び立てられた。〔以上、「案内板」による〕