演福寺塔重創碑

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演福寺塔重創碑

ソウル特別市有形文化財第348号

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 演福寺塔重創碑は、朝鮮を建国した太祖・李成桂の功徳によって再建された、演福寺五層仏塔の建立来歴を記した碑石である。碑身部分は亡失し、亀趺と螭首のみが完璧に寺址に残っていたが、日帝強占期〔植民地期〕の1910年、ソウル龍山の鉄道倶楽部の区域に移されたと推定される。
 演福寺塔重創碑は、最近まで、ソウル龍山に移されたという簡略な事実だけが学界で把握されていたのみで、正確な所在地は確認されていなかった。以後、2012年に、市民の金ソクジュン氏が関連分野の研究者である李スヌ氏の運営インターネットカフェ「ゆがめられた近代歴史の痕跡」に演福寺塔重創碑を発見したという文を上げ、再び知られるようになった。
 演福寺塔重創碑が龍山一帯に移転した経緯については、京義線鉄道が通り過ぎる区域と重なっており、開城駅とも相当に隣接した位置に存在しているという点が、演福寺塔重創碑もまた、京義鉄道の敷設と関連し、移転した可能性がある〔原文ママ〕。
 演福寺塔重創碑は、現在、碑身がなくなっているが、碑文は権近が撰し、文字は成石璘が筆体を刻んだ、朝鮮初期の貴重な文化財である。この石碑は、三国統一期に、中国・唐代の石碑様式を持ち込み、統一新羅時代に典型を成した後、高麗時代まで継承された韓国伝統の石碑様式が、高麗の滅亡とともに止められ、朝鮮の建国とともに、新たに受容された中国・明代の石碑造型様式にそのまま従っており、亀趺の表現自体が非常に象徴的であり、螭首部分も中国の伝統に従い、半円形の碑身上部に五角形の題額を表し、その周囲を数匹の龍が巻きつく形をしている。
 このような碑身上部の螭首部分の造型が中国式に変わったのは、すでに高麗 禑王3年(1377)に造成された、檜巌寺 禅覚王師碑にも現れているが、碑座部分である亀趺まで中国式に変わっているのは、まさにこの石碑がもっとも代表的な先例といえる。〔以上、文化財庁ホームページ解説による〕


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龍山にある鉄道会館。碑があるのは、左方の松の下。


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亀趺。


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螭首と篆額。