楚安山 朝鮮時代 墳墓群
楚安山には内侍〔宦官〕をはじめとして、両班や庶民など、朝鮮時代の墳墓1,000余基がある。とくにここには、朝鮮時代、宮中のさまざまな業務を担っていた内侍府の官員である、内侍の墳墓が集まっている。したがって、この楚安山を「内侍の山」とも呼ぶ。記録によれば、内官であった金継韓とその息子・金光沢の墓があったが、昔、これを楊州孝村里に移した。ここに残っている内侍墓のうち、もっとも年代が古いものは、金継韓の孫である承克哲の墓であり、墓標の建立年代が仁祖12年(1634)である。内官は、養子によって代を継ぐため、孫の姓が異なることもある。ここにある内侍の墓は、大部分、宮闕のある西側を向いている。これは、楚安山の地形的な特性のために生じた現象であるが、死んだ後も、宮闕を望んで王の安寧を祈願するためとも伝えられている。日帝強占期〔植民地期〕にも、村の人々が毎年秋にここで内侍のための祭祀をおこなっていた。ここには、多様な階層の墳墓と数多くの石物が時期別に分布しており、ここは朝鮮時代の墓制と石物の変遷史研究に貴重な資料となっている。〔以上、「案内板」による〕