檜巌寺址
この寺址は、天宝山の麓、南向きに位置を占めている。建立に関する史料がなく、確実な内容は知られないが、忠粛王15年(1328)、元国を経て、高麗に入ったインドの僧、指空がインドの阿羅難陀寺にならい、266間の大規模な寺刹として建立した。その後、中国から帰った懶翁が再び建て、彼が世を去った後、彼の弟子が重建し続けた。檜巌寺は、指空が初めて建立して以来、普愚が住んでいたときまで、約200年ほど繁栄したが、その後、寺の勢力が傾き続け、 19世紀初に廃寺となった。
檜巌寺は、8の区域から構成されている。第1段の石壇から第8段の石築の壁まで、段差を付けて建物を造成した。確認された建物址は、約30余箇所に至り、建物配置は、高麗末から朝鮮初に至る、他の寺刹とは非常に異なる。〔以上、「案内板」による〕