舎那寺 円証国師石鐘碑

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舎那寺 円証国師石鐘碑

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 この石鍾碑は、高麗末期の僧侶である円証国師 太古普愚(1301~1382)の塔碑である。塔碑は、ある事績や文を刻んで、後世に伝えるために立てたものであり、仏教では禅宗が流行し、僧侶の行跡を記憶し、これを碑文に残すために、浮屠とともに建立された。普愚は、13才で出家し、檜巌寺の僧侶、広智の教えを受けた後、多くの寺を巡り、勉学に専念した。46才で中国を往還したが、以後再び中国に行った時には、中国皇帝である順帝が消息を聞き、普愚のいた寺に物品を下賜したという。恭愍王代には、国王の師である王師となったが、辛旽の横暴を憎み、小雪寺で過ごし、そこで世を去った。この碑は、花崗岩でできている地台石を刻み、碑身をはめて立てたが、碑身の両側に、長く四角い柱を立てて碑を支え、上部には、底が丸くて表の平らな蓋石を載せ、碑の本体を保護している。このような形式の碑は、禑王5年(1379)に立てられた驪州 神勒寺 普済尊者石鐘碑と類似しているが、形式が簡略化されている。蓋石や基壇、片麻岩で構成された碑身の一部が破損し、碑文の完全な内容は知られないが、鄭道伝が碑文をつづり、梓林寺の住持である禅師糾聞が文を書き、禑王12年(1386)に、普愚の門人達心が立てたという事実が知られる。〔以上、「案内板」による〕

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碑の前面。朝鮮戦争の際、砲弾を受け、損傷したという。


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背面。