咸王城址

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楊平郡 咸王城址

京畿道記念物第123号

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 この城は、「楊根城」、「咸氏大王城」、「咸公城」などと呼ばれ、龍門山の険峻な地勢を利用して築いた、包谷式の石築山城である。頂上部から西方を眺めれば、遠く漢江越しに白屏山まで見え、ここが漢江を中心とした軍事的要衝地であったことが知られる。咸王城の全周は2,150mほどで、比較的大きな方に入る。龍門山の頂上部から南方に連結する峰を起点とし、西側方面に山城を築いた。山城の全体的な形態は、不定形の多角形模様であり、山の斜面にしたがって築城され、大きな渓谷は含まれない。城の内部は、城の南西側の一部を除いては、平坦地が非常に狭い。城壁は、自然の地形を利用し、岸壁が露出したところには城壁を築かず、築いた部分も大部分壊れたり、土砂に覆われている状態である。外壁が露出したのは、北壁と南壁の一部に過ぎない。城石は整っていない割石を使用し、乱層積みの如く築かれている。城壁の内側には、全体的に幅5~8mほどの回郭道が造成されている。咸王城は、城を築いた方法や城内で発見された遺物から見て、高麗時代に築かれたと推定される。特に、あらゆる地理志の記録の内容に、高麗時代に郡の衆人が蒙古の兵をこの城で避けたとあることから顧みて、一時難を避けるための民堡用の山城と判断される。〔以上、「案内板」による〕

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舎那寺の裏手から、山道を登ること小一時間、突如として崩壊した石築が姿を現す 。


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山城頂上附近には、近年、咸氏一族によって立てられた「咸王城遺墟碑」が佇む


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舎那寺に続く道端に、突然現れる石築。渓谷沿いに築かれており、「城門」とされる


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咸氏の始祖が誕生したという「咸王穴」