威烈公 金就砺墓

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威烈公 金就砺墓

蔚山広域市記念物第7号

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 ここは金就礪(1172?~1234)将軍の墓所である。将軍は彦陽金氏であり、背が高く、人となりは倹素、正直であり、命令が厳格であったという。

 将軍は1216年(高麗高宗3年)から1219年(高宗6年)まで契丹軍の幾度かの攻撃を退け、国を窮地から救った。1216年、契丹軍が清川江の北方を掠奪するや、将軍は先頭に立って戦った。1217年5月、契丹軍が漢江以南を攻撃すると、堤川で敵を打ち破った。1218年7月にも契丹軍の侵略を防ぎ、翌年2月には、ついに江東城を陥落させ、契丹軍を完全に打ち破った。官は最高官職である門下侍中まで昇り、威烈公という謚号を受けた。

 今の墓には、最近作った大理石の祭壇、石塔、新たな文・武臣像があり、昔の文臣像は新たな文臣像の横にある。昔の文臣像は首が切られたまま倒れている。墓碑は1670年(顕宗11年)に、後孫である金砺と彦陽県監が立てた。〔以上、「案内板」による〕

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草むらに放置される、首の切られた文臣像。


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