金龍寺 妙清地蔵

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金龍寺 妙清地蔵



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 文禄の役の際、黒田長政の家臣 林直利(太郎右衛門、掃部)によって朝鮮より連れ帰られたという、妙清尼を祀った地蔵。地蔵の傍らの石碑には次のようにある。

  • 妙清は朝鮮国の人。その姓氏はわからない。字は里。文禄中、我が祖宗の三君が朝鮮にいたが、ある日、山中で八~九歳ほどの一女子に会った。君に泣いて命乞いをしたので、君はこれを憐れんで、「汝、悲しむなかれ、予は人を使って汝を親戚のもとへ送らせよう」。女が答えていうには、「私の親戚は、兵乱に没して死亡し、ほとんど尽きてしまいました。生き残った者もまた逃げ隠れて、居場所が分かりません」。言葉や顔色は、はなはだ悲哀に満ちていた。君は忍ばれずに、女を養い、帰軍の日、ついに率いて日本へ戻った。女子はやがて成長して下婢となり、恩徳に報いた。のちに君は、君の第二男 直道の家に女を給与した。寛永己巳歳(1629)11月晦、君が死亡し、金龍寺に葬られたところ、婢は落髪して尼となることを請うた。妙清と号して、墓域を供掃し、この地に石仏を建て、あらかじめ骸を埋める所とした。のちに病死すると、ここに葬った。享和2年(1802)、同宗と議論して、石に刻んでそのことを記すことにした。ああ、虜の女、よく恩を感じ義を知り志を持ち、ついに変わることがなかった。これもまた奇なことである。林直統。
  • 享和二季歳(1802)壬戌夏五月

 林直利は、黒田二十四騎の一人で、賤ヶ岳の戦い・関ヶ原合戦・大阪陣などに参加し、勲功を立てた人物。築城技術にも優れ、名古屋城・福岡城などの造営にたずさわった。文禄の役の際は、黒田長政につきしたがって朝鮮に渡った。その際、猛虎を退治したという話が伝わっている。なお、石碑の撰者の林直統は、直利の七代孫で福岡藩の家老。〔以上、本山真澄『黒田の虎将 林掃部』、1978を参考〕

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耕雲山金龍寺。


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林直利の墓と伝わる。


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妙清地蔵の正面には、貝原益軒の墓・石碑・銅像がある。


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貝原益軒像。