香正寺 日延上人墓

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香正寺 日延上人墓



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 日延は、文禄慶長の役の際、日本に連れてこられた被擄人であり、姉は戸川逵安の側室となった。姉弟は宣祖の庶王子・臨海君の子という縁起が伝わるが、真偽不明である。日延が、本妙寺を創立した日遙と兄弟と伝える史料もあるが、その信憑性は低い。

 博多の法性寺で得度、京都の本国寺壇林に学び、19歳のとき、下総の飯高壇林に入って修行、39歳で小湊の誕生時第18世として入山した。この頃、安房の龍潜寺、江戸の円真寺・覚林寺などを創立した。寛永7年(1630)、不受不施論争の影響をうけ、誕生寺から退き、法性寺に4年間在住した。福岡藩主 黒田忠之の帰依を受け、香正寺を再興することもあった。寛文5年(1665)、77歳で隠居所として創立した妙安寺で没した。現在、日延の墓は、香正寺と妙安寺の2箇所に残っている。〔内藤雋輔『文禄・慶長役における被擄人の研究』東京大学出版会・1977年参照

博多の「上人橋通り」の由来は以下の通りである。福岡城と薬院村の間には小川があり、城に行くにはこれを渡らなければならなかった。日延は囲碁に通じており、藩主・黒田忠之の相手を務めていたが、あるとき、増水した川を渡れず、登城できなかった。後日、これを聞いた忠之が日延のため、橋を架けた。これが上人橋である。昭和10年代、川は埋め立てられ、現在の国体通りとなった。忠之の揮毫である「上人橋」と刻まれた石の橋柱は、香正寺に移設された。〔香正寺HPによる〕

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香正寺本堂。


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上人橋の橋柱。

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日延終焉の地・妙安寺(福岡市)。


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妙安寺にある日延上人の墓。


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日延が創立した覚林寺(東京都港区)の山門。


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覚林寺の清正公堂。