毛谷村六助の墓

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毛谷村六助の墓



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 毛谷村六助は、修験の山として知られる英彦山の麓、毛谷村に生まれたと伝わる。成人した六助は、加藤清正の家臣となり、名を貴田(木田)孫兵衛と改め、文禄の役の際には、各地で功を立てたという。

 彼の名が人々に知られるようになったのは、『彦山権現誓助剣』(18世紀末)という歌舞伎によってである。 剣の名手である六助が、師匠一味斎の妻お幸や娘お園を助け、師匠をだまし討ちした京極内匠を討ち、その後、清正に召し抱えられて朝鮮に出陣する、という筋書きをもつこの歌舞伎は、仇討ちものの傑作として大好評を博し、江戸時代を通じて再演された。

 六助の晩年については、いくつかの説がある。第一が病死説である。古文書「毛谷村六助略縁起」(1716年写、1902年再写)によれば、文禄の役後、毛谷村に戻り、62才で病死したという。第二が戦死説である。『清正記』では、六助は「おらんかい」(中国東北部)で敵兵に首を取られたと伝える。

 そして第三が、論介共死説である。文禄の役において、晋州城(慶尚道)が日本軍の猛攻によって陥落した際、朝鮮の官妓論介が「倭将」を掻き抱いて河に投じて死んだという。この倭将が毛谷村六助というのである。論介が倭将を道連れに水死したという話は、早くも17世紀には広まっていた(『於于野談』など)。しかし、この倭将が六助であることを証明する当時の史料は存在せず、両者の関係が明確に言及されたのは、20世紀初頭のことである。したがって、毛谷村六助・論介共死説は、近代に生まれた虚構の可能性が高いと推測されている。〔以上、崔官『文禄・慶長の役』講談社選書メチエ・1994、田畑博子「『彦山権現誓助剣』論」『国文学:解釈と鑑賞』61-5・1996、岩谷めぐみ「論介における説話の変遷」『立教大学日本学研究所年報』4・2005、「案内板」による〕

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墓には、「故毛谷村六助、木田孫兵衛墓」とある。


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毛谷村の風景。

* 1970年代、福岡県田川市在住の篤志家により、英彦山中の某所に毛谷村六助と論介の「墓」および「供養碑」が作られた。ただし、この土地は、お園の妹お菊の供養塔があった場所と伝わっており、六助とは直接の繋がりはない。墓の脇に立つ宝寿院という堂には、かつて論介の肖像画や位牌があったというが、現在は撤去されている。


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木田孫兵衛の墓。


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論介の墓。


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慰霊碑。


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宝寿院。