本妙寺 日遙墓

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本妙寺 日遙墓



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 日遙は、もと朝鮮慶尚道河東の人であり、本名を余大男という。

 文禄の役の際、余大男は、加藤清正によって日本に連れて来られ、出家して仏門に入った。京都・甲州・総州の各寺で修行を経た後、熊本に戻り、本妙寺の第三代住職となった。本妙寺を現在地である中尾山麓に移すなど、本妙寺中興の祖として活躍。その後、住職を退いた日遙は、蓮政寺(熊本)に移り、また慶安4年(1651)には、護国寺(長崎)を開山している。万治2年(1659)、79才で死去し、本妙寺に葬られた。

 本妙寺には今も、日遙が朝鮮に住む父と交わしたという書簡や、直筆の書など、日遙ゆかりの遺物が残っている。〔以上、松田甲「本妙寺日遙上人」『日鮮史話』一・朝鮮総督府・1927、内藤雋輔「文禄・慶長役における被擄朝鮮人の遺聞について」『文禄・慶長役における被擄人の研究』東京大学出版会・1976を参照〕

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本妙寺歴代住職の墓。


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