本妙寺 朝鮮人金宦墓
金宦は、文禄・慶長の役の際、加藤清正により、日本に連れて来られた被虜朝鮮人である。
日本渡海後、清正に仕え、200石を宛てられた。清正の死後、後を追って殉死し、本妙寺の清正廟の脇に葬られた。明治維新後、熊本城横に建てられた加藤神社に、祭神として清正とともに祀られている。
なお、「金宦」という名の由来について、『真撰清正一代記』では、
- 清正は、両王子(朝鮮の王子である臨海君・順和君を指す)を受取、従臣弐百余人を具して、日本の陣に帰る。是迄王子に従ひ来りし、小侍郎良甫鑑清正の仁心深く、凡人にあらざるを見て降参し、永く加藤家に仕ふ。清正米弐百石宛を与えて、近習に差置る。小侍郎良甫鑑は、後宮の金鍵を預り、金銀の出納を司る官なり。朝鮮宮中の人、皆金官金官と称す。遂に日本へ渡海して、加藤侯の御殿にありても、金官々々と称呼す。遂に通称となつて、名の如くなれりと云々。
と伝えるが、信憑性に乏しい。〔以上、清正公三百年会編『加藤清正伝』隆文館・1909、松田甲「本妙寺日遙上人」『日鮮史話』一・朝鮮総督府・1927、『熊本市史』熊本市役所・1932を参照〕