耳塚(鼻塚)

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耳塚(鼻塚)

史跡

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 耳塚(鼻塚)は、豊国神社の前方100メートルほど先に行った耳塚児童公園横にある。この塚の歴史は、文禄・慶長の役の際、首級の代わりに鼻や耳を塩漬けにし、日本に持ち帰ったものを豊臣秀吉が供養したことに始まる。当初は鼻塚と呼ばれていたが、いつしか耳塚という呼称が一般的になった。

 江戸時代の地誌、白慧『山州名跡志』(1711)巻三には、次のようにある。

耳塚。大仏殿門の前に在り。由来世の知る所なり。実は鼻塚なり。慶長二年の七月、加藤清正・小西行長、朝鮮の所に於いて斬り取るなり。二大将の勢力二十万にして、朝鮮人の鼻三ッ宛にかく。彼の国に於いて目付の実検に入れ塩漬にして来れり。目付毛利豊後・竹中源助・塩見和泉・毛利民部・品川主殿介・熊谷内蔵介云々。始め塚巡りに幅二間の掘あって北面に欄干橋あり。縁石今尚西方人家の軒下にあり。

 塚の上に立つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古地図にみとめられ、塚の造成から間もない頃の創建と推定されている。〔以上、琴秉洞『耳塚―秀吉の鼻斬り・耳斬りをめぐって―』総和社・1994、「案内板」を参照〕

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塚の前には、明治31年(1898)建立の「耳塚修養供養碑」が立つ。同年は秀吉没後三百周年目にあたり、耳塚に対して大規模な修復が行われた。碑はこれを記念して建立されたものである。