竹林寺 金漢重墓

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竹林寺 金漢重墓



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 竹林寺は、慶安2年(1649)、香西晢雲によって建立された浄土宗寺院である。

 大阪における朝鮮通信使の客館は、西本願寺津村別院(北御堂)と定められていた。通信使一行が幕府差し回しの川御座船に乗って江戸へ出立する際、大阪には、毎回100人近い下官・船手・水主が残留した。このとき、一行がこれまで乗ってきた朝鮮船は、尻無川へ留め置かれた。船の周囲には竹垣が巡らされ、日本人との接触が断たれ、上陸も叶わなかった。そのため、延享度(1748年)の際には、残留者の疲労を慮り、大阪船番所奉行が竹林寺で宴を設け、一行を慰安したこともあった。

 金重漢は朝鮮 東莱府草梁の人。宝暦度(1764年)通信使に随行したが、大阪で病を患ったため、朝鮮船から離れて竹林寺客殿で養生した。その後、数日に渡って医者による手厚い看護を受けたが、宝歴14年(1764)2月10日、死亡した。同年5月、同じく大阪で死亡した李光河・崔天宗の棺とともに、本国へ向けて遺骸が搬送された。竹林寺の金漢重の墓は、遺骸そのものが埋葬されているわけではなく、遺髪・遺品などを埋蔵したものと推定されている。〔以上、「案内板」、中尾宏「大阪と朝鮮通信使」『わが町に来た朝鮮通信使』1、明石書店、1993を参照〕

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竹林寺 本堂。


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墓碑の側面には、「今春倭国客、去年朝中人、浮世何会定、可帰古地春」という辞世が彫られている。