伝王仁墓

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伝王仁墓

大阪府史跡

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 『古事記』には「応神天皇の時に渡来して『論語』10巻と『千字文』1巻を天皇に献上した」とあり、『日本書紀』には「応神天皇が百済に使者を遣わして日本に迎えた。渡来後、太子の師として典籍を教えた」とある、百済人王仁の墳墓と伝えられる。

 江戸時代の中頃、北河内の藤坂村の御墓谷という所に、村人から祀られている「オニ塚」と呼ばれる自然石の立石があったが、享保 16年(1731)、京都の儒学者・並河誠所(並川五一郎、並河五市郎)が『五畿内志』編纂のために名所旧跡を探訪中、禁野の和田寺で「王仁墳廟来朝紀」という古記録を見つけ、この地を踏査して藤坂村の自然石(オニ塚)に出会い、さしたる根拠もなくこれを王仁の墓であると断定して、地元の領主(久貝因幡守正順)に進言して「博士王仁之墓」と刻んだ墓石を建立させた。

 文政10年(1827)、枚方招提村の家村孫右衛門が王仁を顕彰するため、皇族の有栖川宮筆の「博士王仁墳」の碑を建立。明治27年(1894)、墓域拡張工事が行われ、明治 32年(1899)には、仁徳天皇1500年祭の附祭として王仁墳墓の大祭典が行われた。昭和に入ると、王仁の顕彰運動が起こり、1927年、王仁神社奉賛会(副会長・内田良平)が結成され、1938年、大阪府が「伝王仁墓」として史跡に指定するに至る。1941年には、王仁神社建設の一環として、王仁墓に玉垣を造営した。

 戦後の1984年、王仁祭が開催されて以降、毎年11月3日に年中行事化した。1985年には、地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足、墓域の清掃、むくげの植樹、四天王寺ワッソへの参加、韓国との親善交流などの活動を展開する。1992年、大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの案内板・善隣友好館・トイレ・祈念碑などが建設された。

 「伝王仁塚」は、近世・近代版の「王仁伝説」の遺跡と位置付けることができる。(以上、金英達「偽史朝鮮/王仁の墓地と生誕地-並河誠所と金昌洙」、『むくげ通信』181、2000年による)

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墓域の正門である「百済門」。


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墓域全容。


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オニ塚か。


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近世作られた王仁墓。


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玉垣。内田良平や中央朝鮮協会、満洲鉄道株式会社の名が並ぶ。


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「博士王仁墳」。墓域から少し離れたところにある。