高麗人の墓碑・逆修碑

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高麗人の墓碑・逆修碑

佐賀市史跡

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 金立山の麓に立つこの二基の石碑は、近世、朝鮮人によって立てられたものである。一基には、「暁月禅定門、寛永五年戊辰九月初五日」とあり、別の一基には、「逆修、朝鮮国工政大王之孫金公之〔立石〕」「道清禅定門、寛永六年己巳八月日」「妻女同国金氏妙清禅定尼、八月日」とある。それぞれ寛永5年(1628)、同6年に建立されたことがわかる。 

 「逆修」とは、生前にあらかじめ死後の冥福を祈ることを意味する。また、寛永六年碑にみえる「道清」は、鍋島更紗の創始者「九山道清」(朝鮮人)の名と一致しており、両者が同一人物である可能性が指摘されているが、明証はない。 

 『葉隠聞書』第3には、

  • 有田皿山は直茂公高麗国より御帰朝の時、日本の宝になさるべくと候て、焼物上手頭六七人召し連れられ候。金立山に召し置かれ、焼物仕り候。その後伊万里の内、藤の河内山に罷り移り、焼物仕り候。それより日本人見習ひ、伊万里・有田方々に罷り成り候由。

とあり、この地の付近で、朝鮮人陶工団により、陶磁が焼かれていたことが確認され、この碑との関連が推測される。なお、碑が立つ場所は、横穴式石室を有する円墳であるが、現在ではいちじるしく崩壊している。〔以上、佐賀県教育庁社会教育課『佐賀県の遺跡』佐賀県教育委員会・1964、「案内板」を参照〕

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寛永六年碑。


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寛永五年碑


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円墳の上に立つ石碑。