光陵

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光陵

史跡第197号

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 光陵は、朝鮮 第7代の世祖と、王妃の貞熹王后尹氏(1418~1483)の陵である。世祖は、太宗17年(1417)、第4代の世宗大王の次男として生まれ、世宗27年(1445)、首陽大君に冊封された。1452年、端宗が幼年で王位にのぼると、1453年、皇甫仁・金宗瑞らを殺害して権力を掌握し、弟の安平大君を除去し、1455年、端宗をして王位を譲るという禅位教書を下させ、王位にのぼり、成三問らの集賢殿学者が端宗を復位させようとしたが、この企みが発覚すると、みな死刑に処して集賢殿を廃止した。

 世祖は、『貞観政要註解』『本国地図』などを編纂させ、辺境の警備を堅固にし、国税の調査に力を注いだ。『国朝宝鑑』の纂述、軍制改革、察訪新設、各道に巨鎮の設置、号牌法の再実施、常平倉の制度施行、蚕業奨励、屯田制実施、『経国大典』の刊行、刊経都監の新設、八方通貨の鋳造など、文武制度を整備した。そして、『東国通鑑』『易学啓蒙要解』『蚕書』『禅宗永嘉集』『金剛経諺解』『円覚経』『五倫録』などを刊行させた。窺衡・印坁儀を制作し、土地の測量を簡便にした。また、北方辺境を侵犯する満州族を征伐した。世祖は、即位14年の間、多くの業績を築き、中央失権的な王権強化に大きく貢献したが、末年には、端宗から王位を奪ったことに対する人間的な苦悩にとらわれて煩悶し、仏教の教えに頼った。

 貞熹王后尹氏は、坡平府院君院璠の娘として生まれ、世宗10年(1428)に婚姻し、1455年、王妃となった。徳宗・睿宗・懿淑公主を生んだ。成宗が王位にのぼった後、7年間、幼年の王に代わって国を治めた、朝鮮時代最初の垂簾聴政をおこなった王妃として有名である〔以上、「案内板」による〕

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光陵。


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貞熹王后の陵。以下の写真は貞熹王后の陵にあるもの。


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文人石。


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武人石。


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燈明石。


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魂遊石。弾痕らしきものがみえる。