法泉寺址

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法泉寺址

京畿道記年物第48号

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 法泉寺は、高麗中期の代表的な法相宗の寺刹であり、鳴鳳山の麓に位置している。ここには幢竿支柱をはじめとして、智光国師玄妙塔碑と仏殿址、及び石塔の一部などが残っており、周辺にはこの寺址から出た石材が散らばっている。寺址の東方の山裾には、智光国師の浮屠を祀った塔殿址が残っている。浮屠はソウルに移されたが、塔碑はそのまま残っている。塔殿址は、高く築かれた築台の上に建物を建てており、左側の建物址の上には、柱を支えていた石である柱礎石、仏像の裏に装飾されていた光背、派手に彫刻され、階段の間を装飾していた踏道石、そして礼拝を捧げていた壇である拝礼石、石塔材など、ここから出土した石材が集積されている。

 この寺に関して残っている最初の記録は、928年(敬順王2)であり、新羅下代に、この地域の代表的な寺院であったと見えている。高麗時代には、武臣政権以前まで、法相宗の代表的な寺刹であり、門閥貴族の後援を受けて、隆盛した寺刹であったと見える。10世紀から12世紀まで、寛雄、智光国師、鼎賢、徳謙、観奥、覚観ら、有名な僧侶がいたという。朝鮮時代には、柳方善という学者がここに留まり、弟子を教えたといい、この時、韓明澮・徐居正・権ラン〔=攬の正字〕らが彼に学んだという。許筠の記録によれば、壬辰倭乱の際、焼けて無くなったという。〔以上、「案内板」による〕

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幢竿支柱。


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井戸。


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寺址の小山を少し登ると、智光国師玄妙塔碑と石塔材・光背などが集積されている場所に出る。かつては、ビニールシートのかかっている場所に、玄妙塔があった。2004年8月現在、大規模に発掘調査がなされている。